2011年5月6日金曜日

企業はなぜ人材を育成するの?

ブログのサブテーマにあるように、企業の人材育成について書いていこうと思います。サブテーマのもう一方の「アート」は、人材育成の実践というのはアートみたいなものかなという漠然とした思いによります。でもまだ、「真白なキャンバス」に何から描き始めたらよいのかと迷っている。

ブログのテーマについて最初は考えてみたほうが良さそうである。そこで、「企業はなぜ人材を育成しなければならないのであろうか?」、「企業は採用したヒトを育成する必要があるのであろうか?」、「できる人材がそこにいるのであれば、そのヒトを調達してくれば良いのではなかろうか?」、という素朴な疑問から始めてみることにした。

この問いに対して、企業で人材育成に携わっている人々はどのように捉えているのであろうか。企業は、現在所有する資源を活用して、主たる業において最大限の利益を生み出すことを求められている。もちろん、主たる業は、反社会的であるわけはなく、社会に貢献する業ということである。企業が所有する資源とは何を指すのであろうか。企業の資源は、金、モノ、ヒト、情報、時間である。ヒトには知財も含まれる。ヒトが資源であるとすれば、その資源を最大限活用しようとするのには、納得できる。ヒトを資源と捉えれば、それに投資するという考え方にも納得できる。

しかし、企業はヒトを資源として捉え、投資しようとしているのであろうか。日本においては、近年にいくつかの危機であった、バブル崩壊後、近年の不況、震災などの企業の危機状態において、最初に経費を削られたのは、人材育成費ではなかったか。企業と取引している教育ベンダーの方々にお話を伺うと、「昨年は大変だった」という声をよく聞く。その理由は、企業の経営が厳しくなると、教育費用が削られ、昨年まで実施していた研修がキャンセルになったということであった。企業からしてみれば、利益を上げるためには、売り上げを上げて、経費を削るという方法しかない。売り上げが上がらないという予測をすれば、コストカットは必然である。企業が人材育成費用を削減するという動きは、ヒトを資源として捉えきれていないことを示す。もっと悪い場合は、企業はヒトを減らそうという意思決定をすることになる。このように、もし企業がヒトを資源と捉えていたとしても、企業経営の状況によりヒトは、コストになるのであろうか。あるいは、そもそも、企業におけるヒトは、コストなのであろうか。

企業の礎は、ヒトであるという思想は、ヒトをコストとしては捉えていない。少なくとも資源として捉えている、いや、資源というより、他の資源より重要は存在として捉えているのでなかろうか。企業の礎はヒトであるとするなら、企業経営が厳しい状況でも何とか守ろうとする存在がヒトなのである。経営者は、企業におけるヒトに対する思想と、経営という現実とのギャプの中で、ジレンマに長年苦しんできたのかもしれない。

一方で、これからの世界はよりグローバル化し、知の競争の時代であるといわれている。日本企業は、グローバル人材の育成に躍起になってきているし、世界では、知の競争の時代の突入に向けて国をあげて教育に力をいれ、知の創造を生むような人材を確保しようとしている。欧米をはじめ、中国やインドなどの新興国を含めてこれからを担おうとする各国の政府は、教育の変革に取り組んでいる。日本企業も、これからの時代における、競争原理は知の創造にあるということを理解しなければならない。企業は、ヒトを資源として捉えなければ、世界競争に勝てない時代に突入していることを理解することが重要である。これまでのように、企業が、企業におけるヒトをコストと捉えているようでは、今後の知識創造社会での競争力は低下するばかりであろう。日本企業が持ち続けてきた、企業の礎はヒトなりという思想は、今後のグローバル社会において最も重要な思想であり、かつ、実現すべき道標になるのかもしれない。真にヒトを資源と捉え、投資していく姿勢がより求められる時代にある。

ここでは、企業にとってヒトは、少なくとも資源であるという捉え方をしたほうがよさそうである。ビッグカンパニーであるGEでは、ヒトの育成のために、他の資源を最大限に費やしている。3Mでもヒトを資源として捉え、GE同様にたくさんの機会をヒトに提供している。トヨタでも、トヨタウェイには、ヒトを資源として捉えているがゆえの打ち手がたくさん散りばめられている。資源であるヒトに企業は投資し続ける必要があろう。

 さて、最初に掲げた素朴な疑問である、企業はヒトを育成しなければならないのかという問いには、企業におけるヒトは資源であると捉えると、その資源を有効に活用するということになる。企業がヒトという資源を有効に活用するためには、その質を向上する必要がある。企業が従業員の質を向上するためには、何らかの教育や学習環境が必要になる。

ではなぜ、質の良い人材を他から持ってこないのであろうか。日本における人材の流通は、以前に比べれば、進んできているが、圧倒的に他国と比べ少ないのが現状である。日本国内における人材が流通している市場は、外資系企業が主で、純然たる国内企業での人材の流通はそんなに進んできているわけではない。ヘッドハンティング会社のターゲットは、外資系企業であることを見えれば明らかである。

そもそも、日本国内の根底に流れる文化は、農耕民族としての文化である。簡潔に言うと、ムラ社会の文化が根底にある。ムラは、よそ者を受け入れず、閉じられた社会の中で成長していく。この文化と、長年続いた日本企業の長期雇用制度とは、非常によく整合性が取れていた。そんな文化の中で、前述の企業はヒトなりという思想は、生まれてきたのであろう。

しかし、人材の流通は、国内企業においても、M&Aやグローバル化が進み、年功序列による終身雇用は崩壊し実力主義が国内企業を襲った。経営者にとって最大の固定費である人件費抑制のために実力主義による賃金体系は、好都合であった。日本と日本企業の文化と新たに加わった実力主義による雇用体系は、なかなか整合性を持つことができずにここまで進んできている。文化と制度のひずみの中で、文化に基づくような人材の雇用を行うことは困難になっている。このような状況下では、優秀な人材がいるなら、手に入れるべき時代になっているということである。優秀な人材の積極的雇用は、現在のグローバル化が後押しをしてくれそうである。実際に、優秀な海外の人材を登用する動きが少しずつ出てきている。日本国内の企業も、人材のマーケットを国内だけではなく海外にも広げ始めている。

企業における人材は、資源としての有効活用のためにも、育成していく必要がある。また、優秀な人材が外にいるのであれば、それにも触手を伸ばす必要があろう。企業にとり、人材の内製と外部導入は、二者択一ではなく、両方ともに重要なことであると思う。

企業の人材の育成と優秀な人材の外部導入が進むと、企業は、あらたなジレンマを持つことになる。企業が一生懸命人材を育成し、外部からも積極的に優秀な人材を受け入れることは、育ったヒトが、企業外への流出することを意味する。折角育った人材は、どんどん外に出ていくという矛盾が生じることになる。企業は、この新たなジレンマに対しては、優秀な人材が流出しないように、より魅力的な企業になることで対処するしかないのであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿